朝、スイカで止められて気付いた。
定期が切れていた。
所持金は400円程だった。
すっかり供給する事を忘れていた。
切符を買って、130円減った。
帰り道は歩いた。
いい運動!!
今夜も月が美しい。
それにお星もいくつか出ている。
夜ご飯を食べていると、
大家さんの義理のお母さんである花井さんがいらしった。
花井さんは昭和9年生まれ。
一人娘さんはうちの母と同じくらいの年で、
お子さんは無い。
大家の星野さんはどこかの大学の先生らしい。
戦争の話を聴きたいと思って
そのまま立ち話。
愛知県の豊橋に居たそうだ。
ご出身はそちらと言われた。
小学校5年生の頃。
終戦間近はB29や、小型の戦闘機が低空飛行して
爆撃が激しくなって来たので
母と自分と小学校1年生の弟と電車で疎開したそうです。
そしたら、その電車は
だだだだだっと爆撃を受けた。
母や周りの人、自分は体を低くした。
弟は訳が分からず、立っていたらしい。
家族はどうにか無事だった。
弟は「目が青かった!」と 言ったそうです。
それほど、至近距離だったのだと。
田舎での生活は、大変厳しかった。
花井さんは比較的裕福だったから、
ご飯(と言っても白くなく、麦ごはんだった。)を食べれた。
でも「お弁当のご飯は見えない様にしないといけない」と、
ご飯の上に芋をかぶせていた。
夏だけど白い服は目立つから着ちゃいけないとか、
クレヨンとか白い画用紙も贅沢だ!と言われた。
花井さんのお父さんはお仕事で長いことアメリカにいらしたそうだ。
だから、お父さんには日本が負けると云う事は目に見えて分かっていた。
花井さんのいとこが、特攻隊で田舎を発つ時
「こんなことで絶対に死ぬなよ。」と、いとこに言ったそうだ。
花井さんは、いつ引っ張っていかれるか冷や冷やしていたとおっしゃる。
いとこの船は、フィリピン?辺りの特攻隊の基地に向かう途中、沈んだ。
舟の破片につかまって助けを待った。
遠くに日本の旗を掲げた船は見えるが、なかなか助けてもらえない。
待つ間に仲間の半分は波にのまれて死んでいった。
自分も何度も死ぬかと思った。
だけど、花井さんのお父さんの言葉を思い出して
「こんなところで死んではいけない」と覚醒していられた、とおっしゃったと言われた。
それで助けを待ち、助かって、
その間に戦争は終わり、
生きて帰って来れて、
この話をなさったと。
豊橋も丸焼けで、とても遠くまで見渡せたとおっしゃった。
前、家族旅行で鹿児島の知覧や指宿、垂水、桜島、佐多岬に行った時。
中学1年ごろだったかな??
特攻前夜に交わす仲間同士の酒の宴。
母や父への手紙。
記念撮影写真の彼らの笑顔。
その笑顔が強くわたしの印象に残っています。
その資料館で、母(マミー)は泣いていた。
わたしは、何が何でも、戦争は絶対に嫌だ。
殺し合っても、何も解決に至らない。
嫌だ。
ところで、砂風呂はテーチョ、我慢しすぎて
低温火傷したよね!
海、蒼深緑が綺麗だったね!
あの危なっかしい、山のてっぺんの展望所。
床が外側に向かって斜めに下っている…。
一面ガラス張りなんだョ。ひぇ〰だっち。
(写真は佐多岬WEBサイトより。)
桜島は、ヴォルヴィックみたいに緑で覆われていた気がする。
フィルムが巧く巻けていなくて、
桜島での写真が1枚も残って無いんだよねぇ。
夏休みの自由研究は”桜島の軽石”にフォーカスした気がする。
研究じゃない。
資料館の解説を要約して、道で拾った軽石や灰を
ビニルに入れてくっつけたやつだった。
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